仕事が認められると嬉しい、評価されないと嫌、可愛いと言われると嬉しい、ブサイクと言われると嫌、好意を寄せられると嬉しい、嫌われるのは嫌だ。
さて、そういう承認欲求的なものからもう少し表層に目をやると、小さな出来事の中にもされて嫌なことと嬉しいことがあると思います。
小さい頃、お友達と遊ぶという1番最初の人間関係の構築のため、社会性を身につけるために基準として与えられたものに「自分がされて嫌なことは人にもしてはいけません」というものがありませんでしたか?
「自分がされて嫌なことは人にもしてはいけません」
この基準をなんの違和感もなく受け入れられて、もしくは気にすることもなく生きてこれた皆さん、おめでとうございます。おそらく皆さんは多数派の感覚を持ち平和に暮らしているか、周囲を全く気にしない傍若無人な人物です。
幼少期の素直なうたこは、この基準をきちんと守りました。自分がされて嫌なことは決して人にはしなかったのです。この頃私がされて嫌だったことは
- お友達の悪口を聞かされる
- 秘密を暴露される
- ベタベタ触られる
一見、これらをしないようにすることはとても良いことのように思えませんか?
しかし不思議なことに、私の多くのお友達にとって私は「悪口を共有してくれない」「他の子の秘密を知っているのに教えてくれない」「仲良くくっついてきてくれない」子になりました。
悪口なんて言ったら誰もいい気持ちにはならないと思っていたのですが、「自分がされるのは嫌だけど、他人がされている分にはどうでもいいしむしろ面白い」というのが真実のようでした。
女社会はより複雑に!
その後、うたこは成長しました。この頃私がされて嫌だったことは
- 贈り物をされる
- お世辞を言われる
- 嘘を付かれる
私は贈り物があまり好きではありません。自分の管轄外から登場した物に自分の領域を侵されるのが好きではないからです。ですが、自分が贈り物をされるのが嫌だから他の人にもしないでいると「あの子は人の誕生日に何も贈らない」となってしまいます! なんて難儀な!
お世辞も嫌いでした。ほとんど嘘だからです。でも、お友達が髪を切ってきたら可愛いと言わなければならない、褒めて欲しそうにしていたら褒めなくてはならない、それをやらないと「気が利かない」人になってしまいます! なんて難儀な!
嘘を付かれるのも嫌いでした。嘘はダメだよと育てられましたので、私はとても正直者でした。事実を真っ向から捉え、伝える。さてもう想像できますね。私は「言われたくないことを言ってくる子」になりました。
全てひっくり返してみましょう!
- 「例え欲しくないものであっても誕生日やお祝いには何か物を贈らないと失礼」
- 「嘘でもいいから褒めてあげること」
- 「本当のことは伝えずに嘘をつくこと」
人間関係を築く上で求められていることは「自分がされて嫌なことは人にもしない」事なんかではありません。必要とされているのは「相手がされたいと思っていることをやってあげる」ことです。ここに自分の基準なんて必要ありません。
そうやって相手を主体にし続けた結果、見当違いの文化だけが一人歩きしていったのではないでしょうか。ニホン的おもてなしの精神は「大は小を兼ねる」の気遣いで、「数打てば当たる」優しさによってなりたっているのではないでしょうか。
あなたの基準がおかしいのが悪い
「自分がされて嫌なことは人にもしない」に則ったら訳の分からないことになったよ~という話をすると、「そんなのあなたの基準がおかしいのが悪いのよ」と言われたりします。基準となっている基準を揺るがす発言ですよ! これは!
私が私の基準を失って、どこかの誰かを基準にしたとしたら、私は一体どこに行くのでしょうか?
もちろん、上記の出来事は度合いによってはただの「個性」ですし、周囲の人にも「個性」として認識されてきました。大人になった今は「強烈な個性」にもなりましたが、もう大丈夫、このくらいの年令になると「強烈な個性」を持った人はたくさんいるので私も十分隠れています。というか、私なんてただの「個性的」な人に過ぎません。
「自分の基準」こそが全て
大事なのは「自分の基準」です。他人は本当に無責任です。「あなたの基準がおかしい」と言い捨てておきながら、他人の基準を大切に行動していると「自分がないんだね」なんて馬鹿にしてきます。
今、なんとなく生き辛かったり、他人との差異に違和感を感じている人がいたら、まずは「自分の基準」を守りましょう。ただし、「自分の基準」を客観視することは大切です。この時一人の他人と基準のすり合わせをするのではなく、社会や文化、広い視点からすり合わせをおこなっていくのです。国を超えて見るのもいいかも。
ということで、今日のブログでいいたかったのは
「うるせぇ、黙れ! 好きなようにやるわ!」
ってことです。