4/21に公開された、ディズニー渾身の実写版「美女と野獣」は事前情報の通り美しい映像と歌で彩られた素晴らしい映画です。
私は東京フィルハーモニー交響楽団のライブオーケストラで鑑賞する「美女と野獣」に行ってきました。ものすごく豪華な共演なので楽しみにしていました。しかし、ちょっと残念なことが…。
「美女と野獣」実写版についての解釈と共に感想を綴ります。ストーリーを思いっきりネタバレしますので、まだ見ていない方は絶対に読まないでください。
「美女と野獣」ライブオーケストラ
実写版 「美女と野獣」 ライブ・オーケストラ|イベント・ライブ|ディズニー|Disney.jp|
ライブオーケストラとは?
映画をスクリーンで流しつつ、舞台上ではオーケストラが映画内の楽曲全てを生演奏するというものです。
もちろん、セリフや歌は既に録音されて映画に付随しているものがありますので、それにぴったりと合わさらないといけません。かなりの技術が要求されることは間違いないでしょう。
ライブオーケストラは3月の中旬頃からメルマガやサイトでチケットが前売り販売されていました。チケットは1枚9,800円です。
ライブオーケストラの感想
ライブオーケストラは国際フォーラムAホールで上演されました。
舞台上にはスクリーンと、通常のオーケストラと同じように東京フィルハーモニー交響楽団がどーん、といる感じです。
この時点でも、映画のスクリーンがどうしても小さくなってしまうこと、舞台上に明かりが必要であるためスクリーンが多少見辛くなることが心配でした。
上演が始まると、まずはエピローグということでオーケストラの演奏が入ります。ここはワクワクする感じでとても良かったです!
映画本編も開始です。映画と演奏は、ぴったり一致しています。ただ…ぴったり一致していて、生演奏感が全くありません。
映画のスクリーンの前で、動作だけが存在しているオーケストラになんだか違和感を感じました。この違和感の正体は、すぐに判明します。
オーケストラの音は、スピーカーを通して発されているのです。
だから、映画館で聞くのと同じような音になっているのか! そして、一致しすぎて生演奏感がなくなっているのか…。
オーケストラは、生音で聞きたかった!
本当に、ただそれだけでした…。
ライブオーケストラと映画
スクリーンで映されている映画については、明るいシーンは綺麗に見えていましたが、薄暗いシーンはかなり見辛かったです。
モリースが森の中にいるシーンとか、ベルが森の中にいるシーンとか、決闘のシーンとかですね。割と大事なところばかりなのでこれは残念でした。
映画館の大きなスクリーンに包まれて鑑賞するような没入感も得ることができず、とても中途半端に終わってしまっていた気がします。オーケストラに浸ることもできず、映画に没入することもできず…あぁ、せめてオーケストラが生音だったならば…。
本当にめちゃくちゃ惜しかったので、まだ残っている公演分をなんとか生音にしてほしい次第です。といっても、今日が日本公演最後の公演@大阪ですね。生音だといいですね…。あぁ、本当に!
実写版「美女と野獣」感想
以下、実写版ストーリーのネタバレをふんだんに含みますのでまだご覧になられていない方はさようなら!
野獣の過去と人間性
王子が野獣になってしまう前の出来事についても描かれていました。このあたりはアニメ版とかなり違いがあったように思います。
アニメ版では
- 読み書きは習ったけれど覚えていない
- 本はほとんど読んだことがない
- かつてはめちゃくちゃ傲慢だった
と、野獣は結構なダメンズであり、子供っぽかったように思います。なぜ傲慢な人間になったのかというと「みんなに甘やかされて」育ったからでした。
対する実写版は
- 高等な教育を受けた
- 図書室にある本はほとんど全て読んでいる
- 幼いころに母を失い、慈悲のない冷たい父親に育てられた
元々は真面目で優しくて学もあって、それで歪んでしまったがゆえに冷酷かつ傲慢になり、美しいモノ以外は認めなくなってしまったようです。
冒頭で、老婆が尋ねてくる時には美しい人だけを集めた豪華な舞踏会を開いていました。そこでも、傲慢な態度というよりは豪華絢爛な毎日に飽きているような印象を受けました。心が満たされていない、という感じですかね。
ベルの恋するポイントが違った
実写版のベルは、アニメ版よりもちょっと軽い印象を受けました。
代わり映えのない毎日、保守的な村人、もっと違う人生や面白いこと新しいことドキドキすることを求めている点は、アニメ版も実写版も同じです。
たとえ人と違っても自分と向き合って未来を探し続ける様子は、いつの時代も眩しく見えるものです。夢見がち、現実を見ていない、バカなことを、なんて一蹴するのは簡単ですが、そんな人には一生見つけられない何かを見つけることができるのです。
さて、そんなベルですが野獣に実写版独自の設定が付与されていた関係で、野獣に恋したポイントにも変化があったように思います。
アニメ版、実写版共に「城から逃げ出して森の中で狼に襲われているところを、野獣に命をかけて救ってもらった」ところから相手を意識し始めるところは同じです。狼を倒すという野獣の強さ、勇敢さとその後の傷の手当で弱っている姿を見ることでギャップ萌えを発動します。どんな恋愛も始まりはギャップ、覚えておきましょう。
その後の流れがアニメ版と実写版では大きく異なります!
アニメ版では
- 鳥に餌をやっていると、集まってきすぎて大変なことになる
- スープが上手く飲めない
- めちゃくちゃ楽しそうに雪合戦
- 本が読めないので読み聞かせてもらう
など、子供っぽさに対してベルが母性本能を発揮し、二人の距離が近づいていきます。野獣なのになんか可愛い! というところにベルが惹かれていっているのがわかります。
実写版では
- ベルの上を行く読書家であることが分かる
- ロミオとジュリエットが好きというベルに「あんな恋愛もの」と一蹴し、他作品をおすすめする
- 割りと知的な冗談を言う
スープのシーンや雪合戦のシーンもあるにはあるのですが、楽しそうに遊んでいる感じではありません。野獣なのに知的、ベルはそのギャップに惹かれていっているように見えます。
魔女のもう一つの贈り物
アニメ版の「美女と野獣」では、魔女が残したのは一輪の薔薇と魔法の鏡でした。しかし、今回はアニメ版にはない「世界のどこにでもいける本」が登場します。
野獣への皮肉として「例えどこにでもいけたとしても、お前の居場所はどこにもない」というかなりきつい意味が込められているようです。
でも、その為だけにこんないいもの渡しますか?
魔女、結構いいやつだったし、広い世界を見て見識を広めなさい的な意味も込められていたのではないかと思ってしまいます。
ビーストは世界を見てみたいというベルにこの本を渡しますが、ベルが行きたいと願った場所は美しい街や華やかな世界ではありませんでした。
2人は、昔ベルたちが住んでいたパリの一室を訪れたのです。暗くて狭いその部屋には、ベルの母親がいない理由が隠されていました。
その部屋に置いてあった医者のマスクは、疫病の感染を防ぐためのもの…ベルの母親は疫病にかかってしまい、モリースはベルを守るために母親を置き去りにしてその部屋を去ったのでした。
このシーンは過去を描くのには役立っていますが、何かを思うにはちょっと物足りなかったように思います。
部屋まで移動してきたとき、ベルが深刻そうな顔をしているにもかかわらず「観光でもする?」と言い出したビーストはボケてて、男の人の空気読めない感をすごく表現していました。
魔女アジェットは村にも呪いをかけた?
アニメ版と実写版の大きな違いとして、魔女が村人に紛れ込んでいたという点が上げられます。アニメ版では最初に呪いをかけてから、登場することはありませんでした。
実写版では村人に紛れ、森に置き去りにされたモリースを助けたり、最後の決闘シーンでは一人城の奥まで入り込み、涙するベルと倒れたビーストの姿を見て魔法をときます。
その後、城全体の呪いがとけて全員が人間の姿に戻るのですが、村人たちの中に家族がいるものもいました! しかし、城は呪いをかけられてから長い年月が経っていたはず…。なのに、年齢が浦島太郎になっている様子もない…。これはつまり、魔女は村にも呪いをかけていたということでは?
私は、パリの疫病から逃げてきたベルとモリース、戦争から帰ってきたガストンとル・フウ、この4人の外部因子が魔法にかけられたお城と村を救うキーで、これらが整ったことでお話が進行したのではないかと解釈しています。
ベルが歌う代わり映えのしない毎日、毎年同じ日に発明品をもってでかけるモリース、これは呪いにかけられているがゆえだったと考えるとつじつまが合うように思います。毎年同じ日に発明品を持っていく、の直前にガストンとル・フウが帰ってきたことでルートが変わった、みたいな。
ちなみに、アジェットの名前はフランス語で「アシェット」という実際に存在した人の固有名詞が元になっていると予想されます。アシェットは女傑(勇敢な女性)でフランスの村を救った人だったそう。日本語訳ではアジェットになっていましたが、正しくはアシェットなのでは…? 他の村人には名前がないのに、アジェットには名前があることから、この名前にもきっと意味があるのだろうと思います。
と思っていたんですが、魔女の名前が明確に分かりません…。他のブログでは「アガット」とか「アゴット」と言われていました。なのでこの話は一旦信憑性に不安がある、と思っておいてください;
「Home」がカットされている!
アニメ版にはないシーンが取り入れられた影響か、ベルが父親の身代わりになったあと閉じ込められた牢屋の中で一人で歌う「Home」がカットされていました。
歌はこちらです。
この歌では、ベルが父モリースの為に身代わりになる決意をしたこと、たとえどんなに高い塔に閉じ込められたとしても、いつかそれは朽ち果てる、私はまた必ず愛する家に帰ってみせる、という父を思う気持ちとベルの心の強さが表現されています。
過去の描写や、「Home」のカットにより、ベルの人間性がアニメ版とは大きく異なっています。アニメ版は夢見がちだけれど芯の強い女性、実写版では新しい発見を求めるちょっと危なっかしい女性といったところでしょうか。
過去、疫病から逃れる為にパリを離れたという事実を知ったあとのモリースとの会話で「いつも守ってくれていたのね」という一言があったことから、ベルは頭のいい芯の強い女性ではあるけれどちょっと破天荒で、見ている人をハラハラさせる一面もあったのではないかな? と思いました。
頭脳派ル・フウと同性愛
ガストンの回りでうろちょろしているル・フウは、実写版ではかなり頭がいいです。ふしぶしに表現される頭の良さと、人の良さ、私は実写版「美女と野獣」では一番良い奴だなと思いました。
ル・フウは、アニメ版でも同性愛者なのか? と言われていましたが、実写版ではほぼ確実に同性愛者として描かれています。ガストンへの忠実な愛と、裏切られて失恋する様子、そしてその後マダムガルドローブによって女性性に目覚めさせられる村人と、最後には幸せそうに踊っていました。
正直、このくだりが必要なのかどうかよく分かりません。美女と野獣は確かに、変わり者のベルと野獣になってしまった王子など「普通じゃないと言われる」人について描いた作品ではありますが、その多様性を最後に同性愛者にまで広げる必要はあったのかな…。広げるにしてはちょっと分かりづらいし、ちょっとだけ匂わせたかったくらいの話なのかな…。
「普通じゃないと言われる」けど、普通じゃないままで堂々としているベルと「普通じゃないと言われる」から、普通のふりをして過ごしているル・フウの対比を表現しているのだとするとかなり切なさを感じますね。
ベルが普通じゃないままで堂々としていられるのは、美しさという圧倒的な武器があるからでしょう。では、ル・フウが普通のふりをしなくてはならないのは…?
物事の本質を見抜くことをせず、自分たちと違うものを排除しようとする村人やガストンの中で、数少ない本質を見抜く存在であるル・フウ。それは、ル・フウ自身が「普通ではない」からこそできることなのかもしれません。
まとめ
全体的には、アニメ版のシーンを見事に実写で表現していて、映像と歌の美しさ、迫力などは最高でした。
ただ、描かれた過去や小さな変化によりアニメ版とはまた違うストーリーになっているなと思いました。あくまでも私の解釈です。見る人によって感想も解釈も異なると思いますので、皆様それぞれの「美女と野獣」を楽しんでください。
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1.「イントゥ・ザ・ウッズ」はじわじわと染み入って最高だった